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(2)私の身体

私は虚弱体質だ。昭和の気合いと根性には本当に参っていた。何か病気をするわけではないが、いつもギリギリラインを生きていたような気がする。全校集会のような時に最後まで立っているのもギリギリ。中学の部活は吹奏楽に入り、管楽器を演奏していたが、フラフラしていた。でもばたりと倒れはしないから、いつもギリギリ。大人になってから理由がわかった。低血圧、貧血、そして肝臓が弱かった。

10代の頃UFOから執拗に付け回されていたが、妊娠、出産してからというもの、ピタリと止まった。付け回していたのは娘に違いない、と自分では結論付けていた。娘を妊娠したとき、雷に打たれたような衝撃が走り、妊娠検査薬をしなくても妊娠したと確信した。

妊婦の時の検診では頸管ポリープが見つかった。当時20歳の私は何のことかもわからず、切除してもらった。「ポリープができる原因はわからないからね、気を付けようもないかな」とお医者さんに言われた。その後病理に出してもらい、良性だったことがわかった。

その後逆子が治らず、2002年3月11日に帝王切開で出産することが決まった。私の低血圧と貧血では出産に耐えられないとのことで薬を服用。そして3月11日に娘と感動の対面を果たした。帝王切開だったが、対面するまでは意識があり、身体は動かないが、やっと会えたと嬉しくて涙を流し、麻酔科の先生がその涙をそっと拭いてくれたことを覚えている。

実は私は男として生まれたかった。「女の子だから」と言われることが苦痛で、なんとなく男性に憧れていた。が、しかし。この神秘的な出産を経験することで、見事に逆転した。

「ああ、女で良かった!幸せ!」

と心の底から思えた。出産は怖かったけど、こんな素敵な体験ができるなんて!と、私にとって最高な経験となった。娘との対面を果たし、麻酔が全身に周り、私は眠りについた。

 

目が覚めると病室だった。執刀医の先生から質問を受けた。

「不妊治療を受けたんですか?」

私はまだ、女に生まれて良かった状態から目覚めたばかりで混乱した。「いいえ、してません(だって私まだ21歳だよ)」「(年齢若いから)やっぱり、そうですよね。手術中にわかったんですが、卵管と卵巣が癒着してました。外そうとしてみたけど、外れそうになかったから、そのままお腹を閉じました。第2子が欲しいとなっても妊娠しにくいと思うので、頑張ってくださいね」と言われた。私は我が子が無事生まれてくれた感動が大き過ぎて、その時は気にも留めなかった。

 

人生とはいろいろあるもので、私はシングルマザーになった。出産してから就職活動をするという、一般からは外れたコースだった。

資格なし、学歴なし、なのに子供だけはいる。

そんな私への世間からの風当たりは相当強く、心が折れそうになる、というか、折れたままの状態で就職活動が続いた。もう正社員は無理かもと思い、パートとしてとあるシステム会社で働くことができた。仕事内容とか時給とか本当にどうでもよく、

こんな役に立たない私を拾ってくれてありがとう!!

という感謝の気持ちいっぱいで、仕事を頑張った。なにせ入社時はハードウェアとソフトウェアの違いすら分からなかった(え?)。はじめは総務部にいたが、半年後、営業部の正社員にならないかと声をかけてもらえた。正社員になれるなんて!と更に私は頑張った。気がつくと評価されるようになり、昇格もした。ほぼ男性社員の中、女の私が昇格したから、嫌がらせもあった。はいはい、それね。でもね、私お母さんなんで。悪いけど強いんです。と、実際私はヒクほど強かった。大人気なかったと、今では反省している。その会社で働かせてもらっている間、健康診断も受けさせてもらい、婦人科検診もオプションで付けてもらっていた。

そこでまた頸管ポリープが見つかった。

どうやら私は婦人科系が弱いみたい、とやっと自覚した。

そして肝臓の数値も良くない。人より疲れやすいのはきっとこのせいだ。高知県出身なのにお酒も飲めない。仕事でのお付き合いで「お酒飲めないなんてウソでしょ」と100回は言われた気がする。皆私の出身地を知っていたし、なにせ飲めそうな顔をしているからだ。令和だったらハラスメントだよ。

8年目を迎えた頃に退職し、地元の高知県に娘を連れて帰ってきた。30歳の春だった。

そこから一気に方向転換し、やりたいことをやってみる人生にした。システム会社での業務も好きだったけど、手に職のある人に憧れを抱いていた。もっとダイレクトに人の役に立ちたいと言う願望もあったと思う。

高知に帰った頃はシングルマザーで無職という状況に震えていたが、アルバイトを3つ掛け持ちしながら、スクールに通った。整体の勉強をしたのだ。それからエステサロンにも勤めさせてもらった。アロマやフェイシャルなどを経験させてもらい、どんどん視野が広がった。若い頃は小説ばかりを読んでいたけど、大好きな小説を封印。身体の事に関する本を沢山読み、とにかく勉強した。

アロマオイルについては前世で経験していていたと思う。オイルを手にした瞬間、教えられなくてもどうすれば良いのかはわかった。しかしそんなこと言ったらただただ嫌な奴になってしまうと思い、自分の胸に仕舞い込んでいた。

ある日アーユルヴェーダに出会った。アーユルヴェーダのオイルマッサージに使用する薬草オイルは5000年前からレシピが決まっており、そのレシピは神様が考えたものだそうだ。神様が作ったオイルとは知らず、アーユルヴェーダの薬草オイルを初めて手にしたとき、全身に鳥肌が立った。ああ、これだ。と思った。

物凄いスピード感だけど、32歳を目前に、自分のお店を出すことができた。アーユルヴェーダの考えは好きだし、取り入れたいこともたくさんあったが、あえてアーユルヴェーダサロンではなく、トータルケアサロン紅の空という店名にした。本気でトータルケアしたかったし、紅は私の娘の名前から一字取り、おこがましくも仏教の空に憧れを持っていたため、この店名になった。とても気に入っているし、自分で言うのもアレだけど、そこそこの人気店になった。

困っている方が時間とお金を使って来てくれているから、私は全力で仕事をした。オープンから何年か経った頃、不正出血があった。会社員の頃と違い、健康診断を受けていない状況は自営業あるあるだと思う。重い腰を上げて婦人科に行ったところ、またしても頸管ポリープができていた。しかも複数個。サイズも大きく、切除に時間がかかり、低血圧の私はふわーっと意識を失いそうになったから、しばらく病院のベッドをお借りしてしまった。病理に出してもらったが、良性だった。

 

お客様の肌に触れると、わからなくてよいことまでわかってしまう。仕事を頑張れば頑張るほど、スピリチュアリティが開眼していくのをひしひしと感じていた。しかし当時の私は目に見えないサービスを有償で行うことに抵抗を感じていた。

が、ある程度に達したとき、もう無視できない、と腹をくくった。

この世に起こることの大半が目に見えない何かからの影響を受けて起こっている。思考も行動も不調もスピリチュアルが必ず関係しているからだ。私はセッションというメニューを作り、相変わらず宣伝はしなかったけど、必要としてくれているお客様にカルマの解消を始めた。

 

私自身もカルマの影響は大きく受けている。そしてお客様のカルマに触れるとき、許可を頂き入り込むのだが、その都度影響を受けていた。セラピストとしてもそうだけど、疲れている、悩んでいる人に少しでも軽くなってもらうよう努めると、その分自分にもダメージが来ていた。セラピストさんたちは命を削りながら仕事をしている感覚になっている人も少なくないでしょう。それでも「まき子さんのお陰で本当に楽になった」と涙目で言われると、頑張ってよかったと瞬間的に感じてしまう。

しかし私は信仰心を持っているから、私の手柄ではなく、神の為さりだと理解する。お客様のことをケアしながら、私自身もケアしていく必要があった。

 

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